2004 |
11,15 |
最近、気になってること。
それは、いわゆる「原料」にこだわった食べ物が増えてきたことなんです。
たとえば、ココアだったら、黒豆ココアだったり、ゼリーにしてもどこそこの産地のミカンをいれてるとか、そうやって材料、原料への拘りを明記したものが実に多いな、とお昼ご飯のときなんかに思うんですよね。
たとえば、紅茶みたいに、その産地がすべてを分かつものだけじゃなくて、チョコなんかにも産地が明記されてるものが出てきてる様子で。
チョコの豆違いの商品ってのは興味深いなあ、とその話を聞いて思ったんスよねw
とはいえ、チョコ自体最近食べなくなったから。。。
たとえば、シフォンケーキのチョコ味みたいに、ダイレクトに
チョコを食べないものはスキなんだけどさ^^
甘くないチョコはスキで、ちとビターなココアなんかがあればかなりうれしいのになーと思う今日この頃。
最近、そういった原料の違いを売りにした商品が多いのは、やっぱり消費者が、商品の「違い」の根底にあるものを諾々と享受できなくなってきたからなのかな、とぼんやり思います。
昔は、単に商品が違うから味が違うということで納得していたのが、味が違う理由を積極的に求めはじめて、結果、その違いをもとに購入するという新たな理由付けが生まれるのかと。
ちょっとマクロとミクロが入り混じった話をすると。。。
ポストモダニズムが浸透する中で、経済の世界では、未だツリーの形(二項対立構造で作るツリー)でぶら下がった形での漠然とした「普通」が闊歩してきてた気がするんスよね、今まで。
そうした中で、ようやく消費社会の側がそのグレーゾーンに踏み込んだというか。
同じ分類として等価値で並べながら、あえてその違いを提示するやり方をみると、ようやく消費社会がその性質上持たざるを得なかったモダニズムからの脱却が図られてきたのかなあという気がするんです。
「ぜいたくなものを食べるという価値観があったのか?」
そもそもそれ自体がナゾなんですけどね、いってみれば。
たとえば、室町時代あたりの頃って、今ほど流通が盛んじゃなかったから、そもそもその土地で取れるものを一年でまわしていくことが普通であって、そこに贅沢なもの、という発想がなかったようにも思うんですよね。
それが、参勤交代なんかによって、そこでは食べられない贅沢なものを食べるという習慣付けができて、食べることにも何らかの形で付加価値が生まれたのかもしれないって。
そして、今の時代ってひょっとしたらそれに続く新しい意味付けが生まれている時代なのかも、とふと思って興奮してしまった単純なオレですw
昔みたいに、フォアグラ=贅沢〜、みたいな使い古された贅沢が、その形は保持しつつあえて違うものを取り込もうとしてるというか。。。
うーん、言葉にすると難しいけど(;´Д`)
ま、なにはともあれ、おいしいものって食べる瞬間は、いつだって幸せなわけで。
特にこれからの季節、温かいものがおなかに入るだけで、ほんのりとした幸せに触れられる、素敵な季節でもあるんスよね^^
もっとも、それだけ普通の時間が寒くて苦痛なわけですが・・・ということで、冬篭りの支度は皆さんお早めに(つд・)
それは、いわゆる「原料」にこだわった食べ物が増えてきたことなんです。
たとえば、ココアだったら、黒豆ココアだったり、ゼリーにしてもどこそこの産地のミカンをいれてるとか、そうやって材料、原料への拘りを明記したものが実に多いな、とお昼ご飯のときなんかに思うんですよね。
たとえば、紅茶みたいに、その産地がすべてを分かつものだけじゃなくて、チョコなんかにも産地が明記されてるものが出てきてる様子で。
チョコの豆違いの商品ってのは興味深いなあ、とその話を聞いて思ったんスよねw
とはいえ、チョコ自体最近食べなくなったから。。。
たとえば、シフォンケーキのチョコ味みたいに、ダイレクトに
チョコを食べないものはスキなんだけどさ^^
甘くないチョコはスキで、ちとビターなココアなんかがあればかなりうれしいのになーと思う今日この頃。
最近、そういった原料の違いを売りにした商品が多いのは、やっぱり消費者が、商品の「違い」の根底にあるものを諾々と享受できなくなってきたからなのかな、とぼんやり思います。
昔は、単に商品が違うから味が違うということで納得していたのが、味が違う理由を積極的に求めはじめて、結果、その違いをもとに購入するという新たな理由付けが生まれるのかと。
ちょっとマクロとミクロが入り混じった話をすると。。。
ポストモダニズムが浸透する中で、経済の世界では、未だツリーの形(二項対立構造で作るツリー)でぶら下がった形での漠然とした「普通」が闊歩してきてた気がするんスよね、今まで。
そうした中で、ようやく消費社会の側がそのグレーゾーンに踏み込んだというか。
同じ分類として等価値で並べながら、あえてその違いを提示するやり方をみると、ようやく消費社会がその性質上持たざるを得なかったモダニズムからの脱却が図られてきたのかなあという気がするんです。
「ぜいたくなものを食べるという価値観があったのか?」
そもそもそれ自体がナゾなんですけどね、いってみれば。
たとえば、室町時代あたりの頃って、今ほど流通が盛んじゃなかったから、そもそもその土地で取れるものを一年でまわしていくことが普通であって、そこに贅沢なもの、という発想がなかったようにも思うんですよね。
それが、参勤交代なんかによって、そこでは食べられない贅沢なものを食べるという習慣付けができて、食べることにも何らかの形で付加価値が生まれたのかもしれないって。
そして、今の時代ってひょっとしたらそれに続く新しい意味付けが生まれている時代なのかも、とふと思って興奮してしまった単純なオレですw
昔みたいに、フォアグラ=贅沢〜、みたいな使い古された贅沢が、その形は保持しつつあえて違うものを取り込もうとしてるというか。。。
うーん、言葉にすると難しいけど(;´Д`)
ま、なにはともあれ、おいしいものって食べる瞬間は、いつだって幸せなわけで。
特にこれからの季節、温かいものがおなかに入るだけで、ほんのりとした幸せに触れられる、素敵な季節でもあるんスよね^^
もっとも、それだけ普通の時間が寒くて苦痛なわけですが・・・ということで、冬篭りの支度は皆さんお早めに(つд・)
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2004 |
11,14 |
突然ですが、最近釣りを始めました!
といっても、もちろん現実の話ではなく、FFの話w
リアルがマジで忙しかったりしたのと、どうもレベル上げに行きたい気分じゃなく・・・でもギルが足りない(つд・)エーン
というわけで、楽して他の事しながら稼げるといえば、釣りじゃないですか、奥さん?
−なぜ口癖のように、奥さんと呼びかけてしまうんでしょうかorz
さて、そんなわけで、LSの釣りキングのヒゲに聞いてみました。
タレ「スキル9ならどこがいいでしょうかねー」
ヒゲ「女釣るなら、タレさん別に私に聞かなくてもwww」
タレ「そんなこと言ってないからwwwはやく教えろwww」
ヒゲ「じゃ、情報料( ゜д゜)クレクレ」
まともに教えてくれない(つд・)
とはいえ、渋った挙句教えてくれた場所の中で、もっとものんびり出来そうなところをと想い、ゲルスパ野営陣へ。
はー、釣りはいいねぇー。
ということで、目的はサーモン&ヒカリマスでございます。
どうやら、小物は釣れないものの、ミスラ竿+フライ(模擬餌)で折れずに黙々とスキルが上げられる様子。
で、橋のところでぼんやりと釣り糸を垂らします。
暇なので、映画を見ながらの釣り。
あー、釣りはいい・・・ね・・・ぐぅ。
気付いたら2時間ほどうたた寝。
ああ、これでいいのか、オレの釣りライフ。
基本的にワクワクがないものは苦手のようですw
とはいえ、釣りだけで稼げる生活って素敵だよね、絶対。
楽して稼げるわけがないってのは重々承知してるんだけど^^;
そして、ゲルスパといえば、時折変な人が通る場所としても有名。
・裸で死んでいく変なミスラ。
君はなぜオレの前でわざわざ死ぬんだw
・トレード要求して、なぜかそのまま去っていくエル王子
見知らぬ人にトレードして、何かくれるんだろうなー?
まさかクレクレとは言わせないz(ry
・意味もなく/slapして去っていくフレたち
君たち、何しにゲルスパにきたんですかw
まさか暇なのか?でも、横で釣りするなwww
個人的には、一緒に釣り人同士、
「釣れますか?」
「いえ、あんまり・・・」
「よかったらこれ、使ってみませんか?」
なんて新しい釣り人同士の会話に期待してみたいところなんですが、誰もこないので、1ヶ月くらいそんな出会いには期待できないかもしれません。
(-∧-;)ナムナム
○今日の釣り
サーモン2ダース半
マス1ダース半
スキル9→10.3くらい(寝てたので記憶が怪しい)
といっても、もちろん現実の話ではなく、FFの話w
リアルがマジで忙しかったりしたのと、どうもレベル上げに行きたい気分じゃなく・・・でもギルが足りない(つд・)エーン
というわけで、楽して他の事しながら稼げるといえば、釣りじゃないですか、奥さん?
−なぜ口癖のように、奥さんと呼びかけてしまうんでしょうかorz
さて、そんなわけで、LSの釣りキングのヒゲに聞いてみました。
タレ「スキル9ならどこがいいでしょうかねー」
ヒゲ「女釣るなら、タレさん別に私に聞かなくてもwww」
タレ「そんなこと言ってないからwwwはやく教えろwww」
ヒゲ「じゃ、情報料( ゜д゜)クレクレ」
まともに教えてくれない(つд・)
とはいえ、渋った挙句教えてくれた場所の中で、もっとものんびり出来そうなところをと想い、ゲルスパ野営陣へ。
はー、釣りはいいねぇー。
ということで、目的はサーモン&ヒカリマスでございます。
どうやら、小物は釣れないものの、ミスラ竿+フライ(模擬餌)で折れずに黙々とスキルが上げられる様子。
で、橋のところでぼんやりと釣り糸を垂らします。
暇なので、映画を見ながらの釣り。
あー、釣りはいい・・・ね・・・ぐぅ。
気付いたら2時間ほどうたた寝。
ああ、これでいいのか、オレの釣りライフ。
基本的にワクワクがないものは苦手のようですw
とはいえ、釣りだけで稼げる生活って素敵だよね、絶対。
楽して稼げるわけがないってのは重々承知してるんだけど^^;
そして、ゲルスパといえば、時折変な人が通る場所としても有名。
・裸で死んでいく変なミスラ。
君はなぜオレの前でわざわざ死ぬんだw
・トレード要求して、なぜかそのまま去っていくエル王子
見知らぬ人にトレードして、何かくれるんだろうなー?
まさかクレクレとは言わせないz(ry
・意味もなく/slapして去っていくフレたち
君たち、何しにゲルスパにきたんですかw
まさか暇なのか?でも、横で釣りするなwww
個人的には、一緒に釣り人同士、
「釣れますか?」
「いえ、あんまり・・・」
「よかったらこれ、使ってみませんか?」
なんて新しい釣り人同士の会話に期待してみたいところなんですが、誰もこないので、1ヶ月くらいそんな出会いには期待できないかもしれません。
(-∧-;)ナムナム
○今日の釣り
サーモン2ダース半
マス1ダース半
スキル9→10.3くらい(寝てたので記憶が怪しい)
2004 |
11,13 |
«さよならバイバイ»
※昨日の日記より少し内容がリンクしてます。
よければ、昨日の日記からご覧くださいませ。
それとちょいと暗い内容なので、苦手な方はパスしてください。
今月、色々と仕事がバタついてて、メールを読むことも出来ないほど時間が圧迫されてる毎日を送っております。
そして日記も遅れるわけですが^^;
僕には、定期的に( ゜Д゜)ウマーなものを食べにいく同期の友達が数人います。
そのグループで、日記にもいくつか書いたけど、フグや手羽先などなど、定期的に息抜きができる貴重な機会をもらってたわけなんです。
今日、夕方になって、ようやくメールを開いてみると、久々に同期からメールが来ていました。
−それは、そのグルメツアーしている同期の一人が死んだという報せでした。
つい、先日も築地に行ったばかりのはずの彼が突然亡くなったというメールが、全くその時点では信じられず、僕は慌てて他の同期に電話してみたんですが、その知らせが覆ることはありませんでした。
でも。。。僕は、その時点では、まだ全然それを事実として受け止めることはできなかったんです。
あまりに実感がなさすぎて、本当にまだこの時点では他人事でした・・・。
次の日、早退させてもらい、都内に通夜の為でかけました。
とても寒い一日。
白い息を吐きながら東京に着く頃には、微妙に通夜の時間を過ぎてしまったんスよね。
時間かけて東京に来ても間に合わずじゃダメすぎだと想い、落ち込んでいたんですが、メンバーの1人が「まだ今ならお別れできるし。一生後悔するよ、ココで帰ったら」と言い、僕をタクシーに放り込みました。
着いた場所は、小さなカトリック教会。
彼の家がカトリックだったということも、このとき初めて知りました。
もう親族の方が引き払おうとしているときで、どうにも声かけずらかったんだけど、思い切って「すみません、同期で仲良くさせていただいてた者です。遅くなってすみませんが、ご挨拶させていただけないでしょうか」と声をかけてみると、あっさりと場所まで案内していただききました。
「近くで顔見てやってください」
と声をかけてくれたのは、彼のお母さんでした。
意外とお母さん似だったんだな、とぼんやりと思うオレ。
まだ、全然この暗い教会に来ても、実感がわかないんです。
そして、棺の中にいつもの顔で横たわる彼の姿があって・・・。
彼は、もともと喘息持ちで、今回夜中に急な発作を起こして亡くなったということを彼のお母さんが教えてくれました。
そして、その場で、思い出話をしているうちに、ふと、生きている自分たちと、諾々と在るという状態であるということ−そして、存在が失われてしまうというのは、もう笑うことも怒ることも出来ないことだという当たり前のことを、ぐっと意識させられたんですよね;
結局死とは、我々がそれをどう受け止めるかという、生きている側にとっての線引きなんだろうか、と。
そして、僕が多分一番怖いのは、そこに彼がいなくなってしまっても、その痛みを、悲しみをどんどんと加速度的に忘れていってしまう自分に他ならないんだと、ふと思ったんです。
結局、オレにできることは、目を背けず、その痛みを、そして彼が生きていたという証をしっかりと憶えていることなんだろうって。
多分、それが怖いのは、言い換えれば、自分だっていずれその立場に立つだろうからということなのかもしれないけれど。
もちろん、生きていたって、自分のことを誰がいつも気にしてくれているかっていえば、思えば思うほど不確定で不安になるに違いないんだろうけど。
そして、帰りには、いつもの仲間でご飯を食べながら、献杯をしました。
いつもより一人少なくて、ちょっぴり狭い部屋。
結局、そのときには、もう悲しみというよりは、失われていく喪失感のが大きかったんだけど、それでいいんだと思いました。
ずっと、彼と笑ったことは憶えているから。
それ以上の重たいものを引きずらないのは、僕がまだ今を生きているからなんだって、そう思えたんですよね。
この出来事の重たさは、結局その後仕事以外のあれこれを(FF含めて)やれなくなっちゃうくらいのことだったんですけどね^^;
ただ、ふと某所で見たFLASHを見て、なんか腑に落ちた気がしたんです・・・。
結局、亡くなってしまっても、その人は無くなってしまうわけじゃなくて、その場で立ち止まってるだけなんだっていう内容のFLASHで。
一生に歩ける距離なんて限られてるし、いずれまた自分が立ち止まったときに会えるんだよって内容だったんスよね。
だから、自分が歩みを止める日まで、せめて歩き続けていたいな、と漠然と思う。
Kくん、ありがとう。
安らかにお休みください。
*
http://www.geocities.co.jp/Hollywood/1387/walkingtour.html
上に書いたFLASHです。
ベタな内容ですが、今の自分にはちょっぴり沁みました;
よければ、昨日の日記からご覧くださいませ。
それとちょいと暗い内容なので、苦手な方はパスしてください。
今月、色々と仕事がバタついてて、メールを読むことも出来ないほど時間が圧迫されてる毎日を送っております。
そして日記も遅れるわけですが^^;
僕には、定期的に( ゜Д゜)ウマーなものを食べにいく同期の友達が数人います。
そのグループで、日記にもいくつか書いたけど、フグや手羽先などなど、定期的に息抜きができる貴重な機会をもらってたわけなんです。
今日、夕方になって、ようやくメールを開いてみると、久々に同期からメールが来ていました。
−それは、そのグルメツアーしている同期の一人が死んだという報せでした。
つい、先日も築地に行ったばかりのはずの彼が突然亡くなったというメールが、全くその時点では信じられず、僕は慌てて他の同期に電話してみたんですが、その知らせが覆ることはありませんでした。
でも。。。僕は、その時点では、まだ全然それを事実として受け止めることはできなかったんです。
あまりに実感がなさすぎて、本当にまだこの時点では他人事でした・・・。
次の日、早退させてもらい、都内に通夜の為でかけました。
とても寒い一日。
白い息を吐きながら東京に着く頃には、微妙に通夜の時間を過ぎてしまったんスよね。
時間かけて東京に来ても間に合わずじゃダメすぎだと想い、落ち込んでいたんですが、メンバーの1人が「まだ今ならお別れできるし。一生後悔するよ、ココで帰ったら」と言い、僕をタクシーに放り込みました。
着いた場所は、小さなカトリック教会。
彼の家がカトリックだったということも、このとき初めて知りました。
もう親族の方が引き払おうとしているときで、どうにも声かけずらかったんだけど、思い切って「すみません、同期で仲良くさせていただいてた者です。遅くなってすみませんが、ご挨拶させていただけないでしょうか」と声をかけてみると、あっさりと場所まで案内していただききました。
「近くで顔見てやってください」
と声をかけてくれたのは、彼のお母さんでした。
意外とお母さん似だったんだな、とぼんやりと思うオレ。
まだ、全然この暗い教会に来ても、実感がわかないんです。
そして、棺の中にいつもの顔で横たわる彼の姿があって・・・。
彼は、もともと喘息持ちで、今回夜中に急な発作を起こして亡くなったということを彼のお母さんが教えてくれました。
そして、その場で、思い出話をしているうちに、ふと、生きている自分たちと、諾々と在るという状態であるということ−そして、存在が失われてしまうというのは、もう笑うことも怒ることも出来ないことだという当たり前のことを、ぐっと意識させられたんですよね;
結局死とは、我々がそれをどう受け止めるかという、生きている側にとっての線引きなんだろうか、と。
そして、僕が多分一番怖いのは、そこに彼がいなくなってしまっても、その痛みを、悲しみをどんどんと加速度的に忘れていってしまう自分に他ならないんだと、ふと思ったんです。
結局、オレにできることは、目を背けず、その痛みを、そして彼が生きていたという証をしっかりと憶えていることなんだろうって。
多分、それが怖いのは、言い換えれば、自分だっていずれその立場に立つだろうからということなのかもしれないけれど。
もちろん、生きていたって、自分のことを誰がいつも気にしてくれているかっていえば、思えば思うほど不確定で不安になるに違いないんだろうけど。
そして、帰りには、いつもの仲間でご飯を食べながら、献杯をしました。
いつもより一人少なくて、ちょっぴり狭い部屋。
結局、そのときには、もう悲しみというよりは、失われていく喪失感のが大きかったんだけど、それでいいんだと思いました。
ずっと、彼と笑ったことは憶えているから。
それ以上の重たいものを引きずらないのは、僕がまだ今を生きているからなんだって、そう思えたんですよね。
この出来事の重たさは、結局その後仕事以外のあれこれを(FF含めて)やれなくなっちゃうくらいのことだったんですけどね^^;
ただ、ふと某所で見たFLASHを見て、なんか腑に落ちた気がしたんです・・・。
結局、亡くなってしまっても、その人は無くなってしまうわけじゃなくて、その場で立ち止まってるだけなんだっていう内容のFLASHで。
一生に歩ける距離なんて限られてるし、いずれまた自分が立ち止まったときに会えるんだよって内容だったんスよね。
だから、自分が歩みを止める日まで、せめて歩き続けていたいな、と漠然と思う。
Kくん、ありがとう。
安らかにお休みください。
*
http://www.geocities.co.jp/Hollywood/1387/walkingtour.html
上に書いたFLASHです。
ベタな内容ですが、今の自分にはちょっぴり沁みました;
2004 |
11,12 |
今という時代を生きてる自分にとって、死というのは、いつだって定義づけが曖昧で、実態のないものでした。
まあ、当たり前のことだと思うんですけどね^^;
その時々で、それについて考えることは違っていて、ただ一つ言えるのは、いつだってその選択肢を選ぶことができる代わりに、その逆のベクトルに転換することはできないという、重苦しい事実のみが残ったということなのかもしれません。
先日読んだ本(村山由佳の「天使の梯子」)なんかにも、死という題材が取り扱われていて、そこでは死とは、生きてる者がどう受け止めるかということだということが切々と書かれていました。
それを読みつつ、僕もあれこれこのことを思い描いてたわけなんですけれど・・・。
僕にとって、本当に身近な肉親や友人を亡くした経験ってのはあまりなかったんだけど、やっぱりそれに近い体験というのが、FFでの引退なのかな、とぼんやりと感じている今日この頃。
この世界でキャラクタを消すor引退するっていうのは、ある種現実に置き換えれば死と同じ扱いだとオレは思ってます。
友達とバイバイって別れることは、全然切ないとも思わないのだけど、ヴァナで引退っていうのは、その人との接点が絶たれて、その後その人という存在を違う形で本人の中で意味付けていく作業だから。
ただ、思うに、たとえば高校卒業のとき、毎日会っていた仲間が地方に行っちゃって、すごく切なかったのを覚えてるんだけど、これって、こうした毎日会うのが当たり前だったのが、そうでなくなる−つまり、環境が変化することへの躊躇っていう一点だけだったのかっていえば、、、否定はできないかもw
よく、死っていうのは、そこに諾々と在る状態じゃなくなり、非存在のものへと転換するドラスティックな出来事だって言われるのだけど、FFではその存在と非存在の切り替えが意思ひとつに委ねられてしまっている不安定な世界なんだろうな。
だからこそ、また明日ねっていう言葉にすごく重みがあるというか、それが意思に委ねられてることによって、僕は次の日にログインして、挨拶したときの反応に心ゆれるのかなあって思う。
ただ、FFでの別れが、現実のそれと違うといえば・・・。
存在することが不確実性があるからこそ、言葉による重みがあるんだみたいなことを上で書いたけど、それとは裏腹に、昨日話していて、相手と自分が会おうっていう意思があれば、絶対にあいまみえることは可能なんだろうなって信念は固く自分の中にあるんですよね。
それも、生きてる限り、って話なんでしょうけど・・・。
そんなことをぼんやりと考えてた自分に、思いもかけず、このことを強く考えさせる出来事が起こるなんて思ってもいなかったんです。
以下、明日の日記に。
まあ、当たり前のことだと思うんですけどね^^;
その時々で、それについて考えることは違っていて、ただ一つ言えるのは、いつだってその選択肢を選ぶことができる代わりに、その逆のベクトルに転換することはできないという、重苦しい事実のみが残ったということなのかもしれません。
先日読んだ本(村山由佳の「天使の梯子」)なんかにも、死という題材が取り扱われていて、そこでは死とは、生きてる者がどう受け止めるかということだということが切々と書かれていました。
それを読みつつ、僕もあれこれこのことを思い描いてたわけなんですけれど・・・。
僕にとって、本当に身近な肉親や友人を亡くした経験ってのはあまりなかったんだけど、やっぱりそれに近い体験というのが、FFでの引退なのかな、とぼんやりと感じている今日この頃。
この世界でキャラクタを消すor引退するっていうのは、ある種現実に置き換えれば死と同じ扱いだとオレは思ってます。
友達とバイバイって別れることは、全然切ないとも思わないのだけど、ヴァナで引退っていうのは、その人との接点が絶たれて、その後その人という存在を違う形で本人の中で意味付けていく作業だから。
ただ、思うに、たとえば高校卒業のとき、毎日会っていた仲間が地方に行っちゃって、すごく切なかったのを覚えてるんだけど、これって、こうした毎日会うのが当たり前だったのが、そうでなくなる−つまり、環境が変化することへの躊躇っていう一点だけだったのかっていえば、、、否定はできないかもw
よく、死っていうのは、そこに諾々と在る状態じゃなくなり、非存在のものへと転換するドラスティックな出来事だって言われるのだけど、FFではその存在と非存在の切り替えが意思ひとつに委ねられてしまっている不安定な世界なんだろうな。
だからこそ、また明日ねっていう言葉にすごく重みがあるというか、それが意思に委ねられてることによって、僕は次の日にログインして、挨拶したときの反応に心ゆれるのかなあって思う。
ただ、FFでの別れが、現実のそれと違うといえば・・・。
存在することが不確実性があるからこそ、言葉による重みがあるんだみたいなことを上で書いたけど、それとは裏腹に、昨日話していて、相手と自分が会おうっていう意思があれば、絶対にあいまみえることは可能なんだろうなって信念は固く自分の中にあるんですよね。
それも、生きてる限り、って話なんでしょうけど・・・。
そんなことをぼんやりと考えてた自分に、思いもかけず、このことを強く考えさせる出来事が起こるなんて思ってもいなかったんです。
以下、明日の日記に。
2004 |
11,11 |
ちょっと忙しいので、最近読んだ本あれこれ。
いつもどおり、ラインナップ偏ってますが^^;
●森博嗣「ZOKU」
悪(?)の秘密結社ZOKUと、正義の組織TAIとの戦いを描く、って書けば聞こえはいいけど、言ってみればしょうもない話w
でも、これもう少しストーリーに起伏がある続編が出てきたら、個人的にはかなり面白そうだと思います。
映画館で、変な笑い声を起こすためにものすごいテクノロジーを駆使したりと、そのバカさ加減は実はいい感じかもしれない。
あと、このノベルズの装丁は秀逸。
●小川弥生「きみはペット(11)」
人間の若い男をペットに飼う女という、それだけ書くとかなり誤解されそうなテーマのコミック。
この巻では、モモのキモチがぐっと前に出てきて、いよいよ面白くなってきた感じでした。
スミレの感情一つなんでしょうけどね、あとは。
一回ひょんな拍子に、彼女のフィルターが取り去られてしまったとき、多分残るのはモモしかいないと思うわけですが。
貴重なのは、自分が自分でいられる場所をつくってくれる人だと思うんだよな、やっぱり。
憧れとかじゃなくてさ。
●リスクマネージメント系の本数冊
これ、計量化したものとかの話になってくると、Σとかを使った数式が羅列されてて頭痛くなるんです^^;
とはいえ、ある種自分の業務を違うベクトルで見ることもできるし、マクロ的な視点を養えるということで、渋々読んでます。
しかし、改めて、もう少し数学やっておけばよかったと思う今日この頃なんですよね。
実際、頭の中は文系だからなー;;
●村山由佳「天使の梯子」
彼女のデビュー作である「天使の卵」の続編にあたる話。
村山由佳さんは、僕の数少ない作家買いをする中の一人なんですが、その中でも天使の卵の衝撃というのはすごく大きかった。
色々な意味で、その衝撃というのは、まとまることがないまま置き去りにされてる感もあって、読者にとっても、ようやくあれをいい形で受け止めることができる作品になったんじゃないかと思います。
今回の話、死にまつわるエピソードが重たくのしかかるわけですが、それが今の自分にとって色々考えさせる非常にいい機会になりました。
正直なところ、小説としてみれば、主人公のフルチン(という渾名w)の影が大詰めのシーンで薄くなってしまったのが残念ではあるんですけどね。
なぜ夏姫が彼を必要としたのか、それがもう少し透けてくれるとうれしかったかなあというかさ。
でも、やっぱり村山作品はいいな。
その文字から透けてくる人がゆえの切なさ、喜びが、本当に読んでて心地よいんスよね・・・。
あと、プチハマリモノといえば、ファッション雑誌とかでよく付録がついてくるんですよ、最近は。
缶バッジやテープみたいなものから、帽子やバッグみたいなものまで。
意外と実用的なものや、ファッショナブルなものがたまーにあって、普段買わない雑誌でもおまけに引かれて買っちゃうこともしばしば。
で、そういえば、なんかの女の子向けの雑誌が、まるごとその中の服やグッズがネット注文できるってのが日経かなにかに出てたんスけど、あれって羨ましいなと思います。
どうしても、近くにお店がないことも多いだろうし、なによりピンポイントで買えるのがいいなあーって。
オレの場合、自分のスキなブランドで固めて買っちゃうことが多いので、あまりそこからはみ出してモノを選べないってのがあるんで余計に^^;
いつもどおり、ラインナップ偏ってますが^^;
●森博嗣「ZOKU」
悪(?)の秘密結社ZOKUと、正義の組織TAIとの戦いを描く、って書けば聞こえはいいけど、言ってみればしょうもない話w
でも、これもう少しストーリーに起伏がある続編が出てきたら、個人的にはかなり面白そうだと思います。
映画館で、変な笑い声を起こすためにものすごいテクノロジーを駆使したりと、そのバカさ加減は実はいい感じかもしれない。
あと、このノベルズの装丁は秀逸。
●小川弥生「きみはペット(11)」
人間の若い男をペットに飼う女という、それだけ書くとかなり誤解されそうなテーマのコミック。
この巻では、モモのキモチがぐっと前に出てきて、いよいよ面白くなってきた感じでした。
スミレの感情一つなんでしょうけどね、あとは。
一回ひょんな拍子に、彼女のフィルターが取り去られてしまったとき、多分残るのはモモしかいないと思うわけですが。
貴重なのは、自分が自分でいられる場所をつくってくれる人だと思うんだよな、やっぱり。
憧れとかじゃなくてさ。
●リスクマネージメント系の本数冊
これ、計量化したものとかの話になってくると、Σとかを使った数式が羅列されてて頭痛くなるんです^^;
とはいえ、ある種自分の業務を違うベクトルで見ることもできるし、マクロ的な視点を養えるということで、渋々読んでます。
しかし、改めて、もう少し数学やっておけばよかったと思う今日この頃なんですよね。
実際、頭の中は文系だからなー;;
●村山由佳「天使の梯子」
彼女のデビュー作である「天使の卵」の続編にあたる話。
村山由佳さんは、僕の数少ない作家買いをする中の一人なんですが、その中でも天使の卵の衝撃というのはすごく大きかった。
色々な意味で、その衝撃というのは、まとまることがないまま置き去りにされてる感もあって、読者にとっても、ようやくあれをいい形で受け止めることができる作品になったんじゃないかと思います。
今回の話、死にまつわるエピソードが重たくのしかかるわけですが、それが今の自分にとって色々考えさせる非常にいい機会になりました。
正直なところ、小説としてみれば、主人公のフルチン(という渾名w)の影が大詰めのシーンで薄くなってしまったのが残念ではあるんですけどね。
なぜ夏姫が彼を必要としたのか、それがもう少し透けてくれるとうれしかったかなあというかさ。
でも、やっぱり村山作品はいいな。
その文字から透けてくる人がゆえの切なさ、喜びが、本当に読んでて心地よいんスよね・・・。
あと、プチハマリモノといえば、ファッション雑誌とかでよく付録がついてくるんですよ、最近は。
缶バッジやテープみたいなものから、帽子やバッグみたいなものまで。
意外と実用的なものや、ファッショナブルなものがたまーにあって、普段買わない雑誌でもおまけに引かれて買っちゃうこともしばしば。
で、そういえば、なんかの女の子向けの雑誌が、まるごとその中の服やグッズがネット注文できるってのが日経かなにかに出てたんスけど、あれって羨ましいなと思います。
どうしても、近くにお店がないことも多いだろうし、なによりピンポイントで買えるのがいいなあーって。
オレの場合、自分のスキなブランドで固めて買っちゃうことが多いので、あまりそこからはみ出してモノを選べないってのがあるんで余計に^^;
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