2004 |
09,06 |
«夢を見る人»
出かけよう、荷物はいらない。
そう言ったのは多分田島貴男(オリジナルラブ)だったと思うんですが、実際のところ、外へ出るというのは多少の取っ掛かりがいる作業だと、僕は思ってます。
まあ、家大好きッ子だからなんですけどねw(別名プチ引きこもりともいう)
その時点においての緊急性とかってのがないと、どうも外へ出る気がしないというか。
これは旅行とかもそうなのかもしれないけれど。
行けばすごくいろいろ思うところもあるし、なんだかんだで行きたいはずなのに、どうもその緊急性ってポイントに欠けて、結局行かないままのことも多い気がする。
かといって、外へ出るのは嫌いじゃなくて、やっぱり家にいてまったりしたり、仕事してたりするのが日常だとすると、むしろそういった普通の人々が歩く街の日常こそが自分にとっての非日常でもある気がして。
そういうなんらかの形で異分子を自分の中に取り込んで、刺激を常に受けていたいというのはやっぱり今も昔も変わらない願望。
ただ、形としてそれを振り返るものがなくて、ふとした瞬間に、カメラを持ってみようか、と悩んでしまいます。
カメラ片手に出かける、ってのは、自分が外へ出るきっかけの一つになるんじゃないかな、と安直に思う部分もあるんだろうなw
実際、自分が好きなWEBサイトさんでも、写真の使い方がうまかったり、その時々の風景を映しだす写真を飾るサイトさんというのがすごく多いんですよね。
ただし、僕自身はカメラって元々は好きじゃなかったし、今でも少し抵抗があるんだよなあ。
何がかって、人が触れてはいけないところというのをカメラが触れてしまう気がするから。
わかりやすく言えば、今を生きるものってのは、原子とかのパーツの集まりに加え、時間の流れを有しているからだと思うんです。
逆にいえば、人間が何かを捕らえるとき、どうしたって、それは動画としてしか捕らえられないはずなんじゃないかって。
音楽にせよ、文章にせよ、ひょっとしたら絵にせよ、目のカメラにしろ。
その中には時間の流れというファクターがあるからこそ、その変化というものに対する美意識があるんじゃないかと。
でも、純粋にカメラが切り取る光景ってのは、本来人が捕らえることができない視点なんじゃないかと思うんですよね。
残酷に時間の流れを切り取ってしまって、よくも悪くも、人間が意図できないものを映しこんでしまう気がして。
被写体として自分を見ても、僕は絶対カメラって意識しすぎちゃってうまく写った試しがないんスよね^^;
だからこそ、余計に苦手意識が働くのかもしれないけれど。
それでも、逆にいえば人間が干渉できない、その一瞬の神の視点というのが見えるのかもしれない。
色々な写真を見て、最近ふとそんなことを感じるようになりました。
たとえば、僕にとって、とある事象を捕らえたときって、そのときに思ったことと、数年後に同じことを振り返ったときの印象って全然違うと思うんです。
言ってみれば、一つの事象に対する真実なんて、視点の数だけ存在するわけで。
でも、写真というのはそうした視点をはずして、いつでもその視点を持ち込める余地を残して、単にその事象を忠実に焼きこんでいく作業の一環なのかもしれないと思って、だからこそ自分が一度やってみたいなと思ったんスよね。
自分が興味があるものとは全く次元の違う世界に広がる世界だったから。
と、堅い話をしながら、今悩んでるのは、単純にデジカメでいいものはどれかということだけなんですけどね^^;
そういうものを持ったことがないし、携帯のカメラじゃたかが知れてるしな。。。
(今じゃレアなツーカーを使ってるので、新製品にいいのがないんスよねぇ)
今のところ、ソニー信者というわけでもないんだけど、Cybershotがほしいなあーと思いつつ、それは別に性能とかってよりは、単に名前だけで選んでたりもするしw
基本的にこういうのを決める決断力がないスからね。。。優柔不断なO型の典型かもしんない、オレって^^;
そう言ったのは多分田島貴男(オリジナルラブ)だったと思うんですが、実際のところ、外へ出るというのは多少の取っ掛かりがいる作業だと、僕は思ってます。
まあ、家大好きッ子だからなんですけどねw(別名プチ引きこもりともいう)
その時点においての緊急性とかってのがないと、どうも外へ出る気がしないというか。
これは旅行とかもそうなのかもしれないけれど。
行けばすごくいろいろ思うところもあるし、なんだかんだで行きたいはずなのに、どうもその緊急性ってポイントに欠けて、結局行かないままのことも多い気がする。
かといって、外へ出るのは嫌いじゃなくて、やっぱり家にいてまったりしたり、仕事してたりするのが日常だとすると、むしろそういった普通の人々が歩く街の日常こそが自分にとっての非日常でもある気がして。
そういうなんらかの形で異分子を自分の中に取り込んで、刺激を常に受けていたいというのはやっぱり今も昔も変わらない願望。
ただ、形としてそれを振り返るものがなくて、ふとした瞬間に、カメラを持ってみようか、と悩んでしまいます。
カメラ片手に出かける、ってのは、自分が外へ出るきっかけの一つになるんじゃないかな、と安直に思う部分もあるんだろうなw
実際、自分が好きなWEBサイトさんでも、写真の使い方がうまかったり、その時々の風景を映しだす写真を飾るサイトさんというのがすごく多いんですよね。
ただし、僕自身はカメラって元々は好きじゃなかったし、今でも少し抵抗があるんだよなあ。
何がかって、人が触れてはいけないところというのをカメラが触れてしまう気がするから。
わかりやすく言えば、今を生きるものってのは、原子とかのパーツの集まりに加え、時間の流れを有しているからだと思うんです。
逆にいえば、人間が何かを捕らえるとき、どうしたって、それは動画としてしか捕らえられないはずなんじゃないかって。
音楽にせよ、文章にせよ、ひょっとしたら絵にせよ、目のカメラにしろ。
その中には時間の流れというファクターがあるからこそ、その変化というものに対する美意識があるんじゃないかと。
でも、純粋にカメラが切り取る光景ってのは、本来人が捕らえることができない視点なんじゃないかと思うんですよね。
残酷に時間の流れを切り取ってしまって、よくも悪くも、人間が意図できないものを映しこんでしまう気がして。
被写体として自分を見ても、僕は絶対カメラって意識しすぎちゃってうまく写った試しがないんスよね^^;
だからこそ、余計に苦手意識が働くのかもしれないけれど。
それでも、逆にいえば人間が干渉できない、その一瞬の神の視点というのが見えるのかもしれない。
色々な写真を見て、最近ふとそんなことを感じるようになりました。
たとえば、僕にとって、とある事象を捕らえたときって、そのときに思ったことと、数年後に同じことを振り返ったときの印象って全然違うと思うんです。
言ってみれば、一つの事象に対する真実なんて、視点の数だけ存在するわけで。
でも、写真というのはそうした視点をはずして、いつでもその視点を持ち込める余地を残して、単にその事象を忠実に焼きこんでいく作業の一環なのかもしれないと思って、だからこそ自分が一度やってみたいなと思ったんスよね。
自分が興味があるものとは全く次元の違う世界に広がる世界だったから。
と、堅い話をしながら、今悩んでるのは、単純にデジカメでいいものはどれかということだけなんですけどね^^;
そういうものを持ったことがないし、携帯のカメラじゃたかが知れてるしな。。。
(今じゃレアなツーカーを使ってるので、新製品にいいのがないんスよねぇ)
今のところ、ソニー信者というわけでもないんだけど、Cybershotがほしいなあーと思いつつ、それは別に性能とかってよりは、単に名前だけで選んでたりもするしw
基本的にこういうのを決める決断力がないスからね。。。優柔不断なO型の典型かもしんない、オレって^^;
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