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Life in Progress

Bismarck鯖でおバカな日常を繰り返しているタルタルの、音楽と愛と欲望(?)に満ち溢れたFF11&リアル日記。
2024
04,26

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2004
11,12
今という時代を生きてる自分にとって、死というのは、いつだって定義づけが曖昧で、実態のないものでした。
まあ、当たり前のことだと思うんですけどね^^;
その時々で、それについて考えることは違っていて、ただ一つ言えるのは、いつだってその選択肢を選ぶことができる代わりに、その逆のベクトルに転換することはできないという、重苦しい事実のみが残ったということなのかもしれません。

先日読んだ本(村山由佳の「天使の梯子」)なんかにも、死という題材が取り扱われていて、そこでは死とは、生きてる者がどう受け止めるかということだということが切々と書かれていました。
それを読みつつ、僕もあれこれこのことを思い描いてたわけなんですけれど・・・。
僕にとって、本当に身近な肉親や友人を亡くした経験ってのはあまりなかったんだけど、やっぱりそれに近い体験というのが、FFでの引退なのかな、とぼんやりと感じている今日この頃。

この世界でキャラクタを消すor引退するっていうのは、ある種現実に置き換えれば死と同じ扱いだとオレは思ってます。
友達とバイバイって別れることは、全然切ないとも思わないのだけど、ヴァナで引退っていうのは、その人との接点が絶たれて、その後その人という存在を違う形で本人の中で意味付けていく作業だから。
ただ、思うに、たとえば高校卒業のとき、毎日会っていた仲間が地方に行っちゃって、すごく切なかったのを覚えてるんだけど、これって、こうした毎日会うのが当たり前だったのが、そうでなくなる−つまり、環境が変化することへの躊躇っていう一点だけだったのかっていえば、、、否定はできないかもw

よく、死っていうのは、そこに諾々と在る状態じゃなくなり、非存在のものへと転換するドラスティックな出来事だって言われるのだけど、FFではその存在と非存在の切り替えが意思ひとつに委ねられてしまっている不安定な世界なんだろうな。
だからこそ、また明日ねっていう言葉にすごく重みがあるというか、それが意思に委ねられてることによって、僕は次の日にログインして、挨拶したときの反応に心ゆれるのかなあって思う。

ただ、FFでの別れが、現実のそれと違うといえば・・・。
存在することが不確実性があるからこそ、言葉による重みがあるんだみたいなことを上で書いたけど、それとは裏腹に、昨日話していて、相手と自分が会おうっていう意思があれば、絶対にあいまみえることは可能なんだろうなって信念は固く自分の中にあるんですよね。
それも、生きてる限り、って話なんでしょうけど・・・。

そんなことをぼんやりと考えてた自分に、思いもかけず、このことを強く考えさせる出来事が起こるなんて思ってもいなかったんです。
以下、明日の日記に。
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タレ
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男性
職業:
ホストと言われるけど違います(´・ω・`)
趣味:
音楽だいすっき!
自己紹介:
Bismarck鯖でぼんやりと生きています。
音楽大好き(聞くのも弾くのも作るのも)、それなりに拘るけどがむしゃらは好きじゃない、PTは会話がないとつまんない・・・そんなヤツの日常ですが、よかったら見てやってくださいませっ。

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